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〔辰野金吾について〕

 金吾は、安政元年(1854年)唐津城下坊主町の姫松倉右衛門、母まつの次男として生まれました。母はやさしいけれど、しつけに厳しい人でした。7歳になった金吾に、母は、日課として家から200メートルほど離れた井戸からの水くみを命じました。家で毎日使う水がめを一杯にするためには、5、6回往復しなければなりません。体が小さくひ弱な金吾にとっては重労働でとてもつらいことでしたが、母は「このくらいのつらいことで弱音をはくようでは先が思いやられます。どんなにきつくても辛抱して、言われたことを成し遂げるよう努力しなさい。」と言って、水くみを続けさせました。

 

  明治維新により新しい時代が始まり、唐津藩でも時代に遅れないようヨーロッパの文化を取りいれるため英語学校が設立されました。先生として18歳の高橋是清が招かれました。後の総理大臣となった人でした。金吾は英語を学ぶうちに、上京して西洋の学問をもっと勉強したいと思うようになりました。当時政府は、これからの日本を支えていくような優秀な人材づくりに力を注いでいました。工務省では、工学寮(今の東京大学、工学部)を設け、明治6年(1873年)第1回目の生徒を募集しました。募集人員は40人で、全国各地から選ばれた秀才たち100人が受験しました。19歳の金吾はだれにも負けない自信をもって受験しました。むずかしい問題が多かったため、落ちたと思っていましたが、40人中40番目、ビリで合格していました。金吾は人並みについていくには、人の2倍も3倍も努力しなければと少しのひまも惜しんで勉強に励み、1番の成績で卒業することができ、金吾は喜びをかみしめながら7年ぶりにふるさと唐津に帰りました。そして金吾には、工務省からイギリスへ留学するよう通知がありました。明治13年(1880年)イギリスへ渡り、建築学を学び、実地研修として、フランス、イタリアの建築物を見て回りました。帰国した金吾は教授となり明治21年(1888年)日本で初めての博士となりました。

 

 

問題(1)帰国した金吾が教授となったのはどこでしょうか?                              

①東京大学  ②京都大学  ③慶応大学

 

 

 この年政府は、ヨーロッパの国に負けない中央銀行(日本銀行)の建設を計画し、設計を金吾に依頼しました。金吾は地震にあい家がゆれ動き恐怖を覚えた経験から地震国日本には、地震や火災に強い石やレンガの建築が必要だと考えていました。明治29年(1896年)ヨーロッパ風ルネサンス様式の赤レンガ造りの堂々たる建物が完成しました。明治の三大建物といわれる建物のうち、二つを完成させた金吾の名声は高まり、関東大震災のときも二つの建物はびくともしませんでした。色あざやかな赤レンガ造りのヨーロッパ風ルネサンス様式の建物を人々は「辰野式建物」と呼びました。

 

 

問題(2)明治の三大建物といわれる建物のうち金吾が完成させた二つ、一つは日本銀行、もう一つは?

①鹿鳴館  ②東京駅  ③岩崎邸(三菱財閥)
 

 

 

 

 

 

 

 


 
  答え.(1)① (2)②

 

〔松浦佐用姫について〕

 宣化天皇二年(537)大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は朝廷の命を受け、任那・百済を救援するため軍を率いてこの松浦の地にやってきました。狭手彦は名門大伴氏の凛々しい青年武将でした。物資の補給や兵の休養のため、しばらく松浦の地に軍をとどめている間に、狭手彦は土地の長者の娘の「佐用姫」と知り合い夫婦の契りを結びました。
 やがて狭手彦出船の日、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山(かがみやま)へ駆け登り、身にまとっていた領巾(ひれ)を必死になって打ち振りました。

 

 問題(1) なぜ、領巾(ひれ)を振ったのか?


  ①当時、領巾を振れば、邪を払い願いがかなうと信じられていたから

  ②大伴狭手彦のプレゼントだったから

  ③船から良く見えるから

 

 

 

 軍船は次第に遠ざかり小さくなっていきました。狂気のようになった佐用姫は、鏡山を駆け下り栗川(くりがわ=現在の松浦川)を渡って海沿いに北へ向かって走っていき、やがて加部島(かべしま=呼子町)の天童岳の頂きに達しましたが、遂に舟が見えなくなると、その場にうずくまり、七日七晩泣き続けてとうとう石になってしまったといわれています。

  

 問題(2) 佐用姫伝説に関する話が最も古く文献にあらわれるのは?


   ① 万葉集   ② 肥前風土記   ③ 魏志倭人伝
 
 

 


 
  答え.(1)①  (2)②

 

 

 

 

 

 

〔唐津城初代藩主について〕 

  唐津城初代藩主は、この地方を発展させるためには唐津湾に面した場所に城づくりをするほうがいいと考えました。

 

  問題(1) 唐津城初代藩主は?!

           ひろたか               ながよし           ただあきら                       

   ①寺沢志摩守広高 ②小笠原佐渡守長和 ③水野和泉守忠光 

 

 城を築くとき、松浦川・波多川(徳須恵川)・神田川(町田川)の流れを変えて、川口を一筋にする大工事を行いました。これにより、洪水に悩まされていた土地を城下町の一部や実りの多い田畑に変えることに成功しました。

この工事のとき、松浦川の川口近くは水の勢いで何度も失敗を連続し、困り果てて「人柱!」を建てようということになりました。しかし、人間の命の尊さを説く、安養寺(東唐津)の宝誉上人の進言を聞き入れ、「人柱」の代わりに、これまで洪水で亡くなった多くの人の霊を供養する千本の塔婆を土手に埋め、堤防工事はみごと完成しました。

この辺りは  問題(2)  ①百人塚  ②千人塚  ③万人塚  と呼ばれています。

 多くの困難を乗り越えて、唐津城と城下町づくりにとりくんだこの初代藩主は、虹の松原も植林したと伝えられています。
  

  〈郷土につくした人々=ふるさと唐津の偉人たち  唐津市教育委員会編 より〉

 

 

 

   答え. (1)① (2)②